「アスリート、
第二の人生が始まる」
オリンピック3度出場のアスリートが、大和ハウス工業の営業としてセカンドキャリアをスタートした。ゴールは葛藤と挑戦の先にある。
スケートが嫌いだったオリンピアン
及川は3歳でスケートを始めた。6歳から大會に出場した。しかし、どれだけ練習しても勝てなかった。同級生より頭1つ分、小さな體。逃げ出したいほど厳しい父の指導。北海道十勝平野の凍える寒さ。「スケートが嫌いだった。ずっと、ずっとやめたかった」。
練習が嫌いで、引っ込み思案で人見知り、勝負には向いていない。でも負けず嫌いの少年は、やがて世界と戦うトップアスリートへと成長する。
トリノオリンピック2006、スピードスケート男子500m。及川は日本人選手トップの4位に入賞する。2005年から2010年までのワールドカップでは、100mで3度のシーズン総合チャンピオンに。2009年ワールドカップでは當時の500m日本記録を樹立。オリンピックはトリノに続き、バンクーバー、ソチと3大會連続で出場した。
トリノで逃したメダルを追って、及川は滑り続けた。「もっと闘える。去年の自分を超えていく」。選手のピークは20代後半といわれるが、技術はそこからさらに上がっていく。及川は38歳の時、スピードが出にくい低地リンクにおける500m自己ベストを記録した。まだいける。もっといける。
それでも、いつかは足を止め、違う道へ歩き出す日がやってくる。故障をかかえる體は限界だった。2023年、今日が最後と決めたラストレース。會場には及川の競技人生をたたえるアナウンスが流れ、滑走中も拍手が鳴り止まなかった。ゴールした後、共にオリンピックを戦ったメダリストや仲間たちに花束でねぎらわれ、感極まって涙をこぼした。
42歳になった及川は、大和ハウス工業のアスリート社員から営業社員へ進路を変え、セカンドキャリアをスタートした。それから1年。「何から何まで、今までとは全く違う。アスリートの経験なんて役に立たない。毎日、頭を悩ませている」と苦笑する。しかし、スケートの世界で約30年、何度転んでも立ち上がり、自分を追い込み、そのひたむきさに打たれた人々が手を差し伸べ、次のステージへと上がってきた。その経験こそが彼の財産であり、強さなのだ。
「人生で一番きつかった」という小學生時代の練習は、その後の競技生活を支える基礎になった。中學生の時には転機が訪れた。當時やっていた長距離が苦手で、けがをして醫者からスケートは無理だと言われ、內心喜んだら、父が「じゃあ、短距離だな。スケートをやめる選択肢は將來に取っておこう」と言う。渋々転向したら、スピード感がたまらなく面白い。
高校、大學と続けたが、レース成績はあいかわらず。大學1年生の大會はダントツでビリ。屈辱で「今度こそやめる」とキャプテンに告げると「下がるところまで下がったんだから、あとは上がるだけ」と言われ、思いとどまり自分を省みた。レースの時、頭が真っ白になるのは、自分への過度な期待や周りの目を気にしすぎていることが原因だ。「もし失敗したら、って考えるほど、おまえは練習をしたのか?こんな遅い選手に誰も注目なんてしていない」。
子どもの頃から父に「勝ちたいなら人の2倍、3倍練習しろ」と言われてきた。學業もあり、時間を確保するのは難しい。それなら人の2倍、3倍考えよう。どうやったら速くなれるのか。どうやったら効率良く滑れるのか。階段を曲がる時は、カーブワークのように體を使った。反射神経を鍛えようと、青信號になった瞬間に一歩踏み出した。ロードバイクのトレーニングは、スケートの動きにつながるようにひと漕ぎも無駄にしなかった。
努力がついに開花した。大學4年生の日本學生氷上競技選手権(インカレ)で、及川は優勝した。スタートラインに立つと周囲の雑音が消えた。滑り出すと水中にいるように歓聲がゴーッと周りで渦巻いた。究極の集中狀態であるゾーンを初めて體験し、「生涯でベストレースでした」と振り返る。
小學生の時から大會に出場
ソチオリンピックスピードスケート
日本代表選手選考會
アスリートから営業社員への転身
インカレ優勝が評価され、競技活動を支援してくれる就職先が見つかった。トリノ、バンクーバーオリンピックの後、その會社のスケート部は廃部になるが、大和ハウス工業に所屬していた選手仲間の紹介で、及川はアスリート社員として入社することになった。
當時、大和ハウス工業のスケート部の部長からかけられた言葉を、及川はよく覚えている。「今はスケートを一生懸命に頑張りなさい。もうやめたい、そう思うまで滑り続けていいから、やり遂げなさい。引退後、やりたいことが見つかって違う道へ進むにしても、社員として殘るにしても、どちらでも応援するよ」。
大會には、本社や開催地近くの支店から多くの社員が応援に駆けつけてくれた。勵みになった一方、プレッシャーでもあった。いい成績を見せられるか不安だった。毎回、レースの1週間前から「全然調子が上がらない。今回は本気でダメだ」とコーチやトレーナーに弱音を吐く。彼らは、また始まった、いつもの泣き言だと取り合わない。それでも不安を口にし続け、レース當日、突然、調子がバンと上がるのだ。
ネガティブ思考は、アスリートにとってはリスクマネジメントにあたる。起こり得る障害を予測し、自身の弱點を探り、改善する戦略を立てて何度も試す。そうやって自分の可能性にチャレンジし続けた。
引退後の進路も、挑戦を選んだ。スポーツには一生関わっていたいが、今までスケートしかやってこなかった。他の世界を見ずに、このまま人生を進んでいいのか。ビジネスパーソンとして働けば、新しい景色が見えるかもしれない。
會社との面談では、遠征や合宿に行くことが多かったこともあり、家族の待っている北海道に戻りたいと伝えた。未経験の仕事を前に「怖さしかなかった」と言う及川にとって、家族は背中を押してくれる存在だった。
及川は、北海道支店の営業推進室に配屬された。仕事は、お客さまのご要望など「情報」を事業所やグループ會社につなぎ、営業活動を支援すること。お客さまは法人や金融機関、會計事務所など。住宅購入を検討する従業員も対象だ。
及川はアスリート社員の時、友人から「家を買いたい」と相談され、気軽に擔當部署へつないできた。その結果、非営業社員で上半期トップの數字を出して表彰されたことがある。同じことを今度は業務として行うのだ。
今はほとんど毎日、先輩や同僚と共に、お客さまや不動産會社を訪問する。単獨訪問も行うが、生來の性格が足かせになる。「人見知りで、専門知識も足りない。だから最初の一歩が踏み出せない」と自嘲気味に話す。アスリートからの転身を知るお客さまなら話も弾むが、知らないお客さまから見たら及川は40代のベテランだ。
「1年たっても、まだ何もできていない」と焦りは募る。だが、及川は努力の人だ。宅建試験は一発合格。「模試では1回も合格點に屆かなかったので、運が良かっただけ」と謙遜するが、合格率は低い。運だけでは通らない。試験勉強は用語の意味を調べるところから始めた。朝、目が覚めたら布団の中で問題を數十問解く習慣を付けた。小學生の頃、目覚めてすぐ腕立て伏せや腹筋などを何十回もしていたように。
朝禮スピーチでは、他の人が経済ニュースや時事ネタを話すところ、及川はお客さまとのコミュニケーションのきっかけになるネタを探す。SNSで話題の話などを深掘りし、パワーポイントで発表。プレゼンの練習になるし、同僚から「さっきの話、訪問先で使わせてもらうね」とお禮を言われてうれしかったこともある。
人と違う方法を模索するのは、及川の気質かもしれない。父から「短所は長所で補え」と言われ、得意なスタートダッシュを磨いてきた。通常、スタートラインでは體を正面に向けるところ、橫向きにひねって構えた。獨創的なフォームは世界最速のトルネードスタートと呼ばれた。人と同じやり方では追いつけない。社會人としての遅いスタートを補う方法を、もがきながら今もずっと探している。
同僚をはじめ、人に恵まれた職場環境
営業推進室のミーティング
スポーツ界の発展に盡くしたい
トップアスリートから転身し、社會人2年生となった及川を、周りの人はどう見ているのだろうか。
同僚は「及川さんはソフトで、ユーモアがある。物事を深掘りする性格で、“努力の人”だと尊敬しています」と語る。一緒に回る営業先では、経営者のお客さまから「スケートをやめようと思った時、どうやって乗り越え、続けられたのか」など、質問されることも多いと言う。困難に直面した時のメンタルの保ち方や、長期にわたってモチベーションを維持する自己管理術は、ビジネスの世界でも役に立つ。
先輩は「人柄が素晴らしい」と評価する。「私たちの仕事は、積極的に営業できることも必要ですが、同じぐらい“人柄”が大事なんです。及川さんは、営業がうまくいかないと落ち込んで真剣に悩まれる。でも、この仕事は無駄になることも多い。切り替えて次に行けばいいんです」。誠実な人柄は、お客さまとの信頼関係を築く基礎となる。その信頼が営業成績に結びつく日も來るはずだ。
営業推進室の室長は、こう語る。「営業推進部の社員は全國に數百名。その中には工場にいた人、購買部門にいた人、グループ會社の人、非営業職だった人などが大勢います。及川さんは最もかけ離れたところから來て、この仕事に取り組んでいる。彼の存在は、営業経験のない人に大きな勇気を與え、部署全體に非常に良い影響を與えるでしょう」。
そして、スケートを長く続け、ビジネスパーソンに転身する原動力となった家族も、及川をそばで見守っている。みんなが彼の可能性と今後の爆発力を信じている。及川の努力と挑戦は、他の新入社員や中途入社社員の勵みとなり、子どもたちに見せる背中となり、困難を乗り越えるロールモデルとなるだろう。
さらに及川は、副業制度を利用して、講演會やスケート教室での指導も行う。例えば大和ハウス工業が開催するお客さま向けのイベントやセミナーの講演にゲストとして登壇。ホテルの大會場でも、少人數の會議室でも、及川はいつも懸命で汗だくになり、トップアスリートとしての経験や得た気付きを伝えている。
冬は子どもたちのスケート教室に出向く。「老若男女問わずスケートをやってみたい方がいれば、體が動いてパフォーマンスができるかぎりお教えしたい。スポーツ界の発展のために何かできたらと思っています」。
ライフワークともいえる活動は、大和ハウスグループが數多く協賛するスポーツ?文化活動ともリンクする。創業者の言葉のひとつ「會社は社會の公器である」、文化?蕓術の伝承もまた企業として大切な役目であるという精神を、及川自らが體現しているのだ。
及川は、アスリートが支援を受ける心強さも、セカンドキャリアに悩む葛藤も知っている。1人のプレーヤーとして、ファンとして、スポーツに生涯関わる喜びも知っている。元アスリートたちの経験は、同じ境遇にいるアスリートの希望となり、スポーツ協賛を通じて社會に貢獻する大和ハウスグループの道標になっている。
及川には、父から教わり、人生の教訓にしている言葉がある。「これを知る者は之を好むものに如かず。之を好むものは之を楽しむ者に如かず(孔子)」。物事を知っているだけでは、好きな人に及ばない。好きなだけでは、楽しむ人に及ばない。「私は今、仕事を知る段階で、楽しむまでたどり著けていません。それでもいつかは、この言葉を自信を持って言いたい」。
まだ2年目のスタートラインだ。“Go to the start” 位置について、“Ready” 構えて、さあ號砲は鳴った。はるか先のゴールに向かって、一歩ずつ足を前に出すだけだ。
お客さまの會社で講演を行う
父から贈られた孔子の言葉
※掲載の情報は2024年6月時點のものです。