「復興支援に立ち上がる」
-復興公営住宅普及プロジェクト-
大震災で家を失った人々へ、一刻も早く豊かな暮らしの場を。創業者精神のDNAが、復興公営住宅の普及を加速させた。
仮設から恒久的な住まいへ
桜が満開を迎えた春のある日、復興支援室の石井は宮城県東松島市にいた。設計に攜わった復興公営住宅を見て回りながら、ご入居者様に「こんにちは。今日は風が強いですね」と話しかけ、住み心地を尋ねる。振り返れば東日本大震災の2カ月後、大阪の本社から福島へ駆け付けた時から、すでに5年の月日が流れていた。
當時、まだ多くの被災者が體育館などで寢泊まりしていた。一日も早く応急仮設住宅を!強い思いに駆られ、設計や工事に攜わる仲間たちは早朝から深夜まで働き続けた。技術支援で現地入りした石井もまた、晝は自ら設計した部品を完成させるため、品不足の中、ホームセンターや問屋を回って建材をかき集め、夜は図面を描き続けた。
本社へ戻った後も何度も東北に足を運び、ようやく応急仮設住宅が行き渡った頃、上司から「また3カ月ほど助けに行ってくれないか」と頼まれた。これから必要なのは、終の住処にもなり得る復興公営住宅だ。長年、集合住宅商品を開発してきた石井の本領を発揮する時だった。
しかしながら、家族と離れて仙臺へ赴いた石井は、目の前に広がる荒涼たる風景を見て自分の甘さを思い知った。「3カ月どころの話ではない。10年はかかるかもしれない」。やるしかない。長期戦の覚悟を決めた。
宮城県名取市に完成した
當社の応急仮設住宅
いつか信念は通じる
2012年、仙臺に復興支援室が設置された。ここを拠點に、石井たちスタッフは自治體に向けて復興公営住宅の提案に取り組んだ。ところが、従來の公営住宅は鉄筋コンクリート造や木造が主流で、大和ハウス工業の強みである軽量鉄骨造は「前例がない」と受け入れてもらえない。
なぜ、この良さが伝わらないのか。全國の工場で部材を生産する軽量鉄骨造なら、高品質な住まいを短工期で建てられるというのに。くじけそうになりながらも、石井たちは信念を曲げなかった。「大和ハウス工業は戦後の住宅不足の中でプレハブを開発し、困難を突破してきた會社ですから」。社會の役に立ちたいと思う創業者精神は必ず認められるはずだ。
一方、自治體側は用地確保が難航。また、建材や人材が不足し、土地造成?建物設計?施工ごとに業者を公募して決める従來の「入札方式」が滯り、復興の足かせとなっていた。
その點、大和ハウス工業は、地域に根ざしたスタッフが土地オーナーと長年にわたって関係を築いている。土地の確保から造成、建築、街づくりまで一貫して進められる。石井たちは、自社で土地を手配し、そこに建てた住宅を自治體に買い取ってもらう「買取方式」の提案を進めていった。
採用されるまでには、困難を極めたが、最初に建設が実現した當社の復興公営住宅は、他の自治體からも注目を浴び、買取方式による復興公営住宅の建設が、被災地の各地で加速度的に進んでいった。社會の役に立ちたいと願う石井たちの信念が通じたのだ。
建設中の復興公営住宅
設計の仕事を超えて
宮城県東松島市の小松南住宅は、石井が最初に手がけた復興公営住宅だ。住宅が圧倒的に足りない初期の頃ゆえ、スピードが求められた。もちろん耐震性や耐久性が高いことは當然だが、それだけを追い求めると、ありがちな箱狀の建物になるだろう。
だが、スタッフ全員が「やるからには、プレハブで建てる先駆的なモデル事例にしたい」と考えていた。そのために細部の仕様や外構、植栽まで徹底してこだわった。メンテナンスの手間を心配されたら、外構のエキスパートである鈴木と共に説明資料をつくり、業者の有無を問われたら探し出して伝えた。建物の先にある「暮らし」を豊かにしたいと、あきらめずに何度もキャッチボールを重ねた。
石巻市にある新立野復興住宅の設計コンペでは、上司の橋本や設計事務所と深夜まで熱く議論を重ねた。そうやって誕生したのが「リビングアクセス」の概念を取り入れた住まい手のコミュニケーションを育むプランだ。
リビングを共用の通路側に配置していることが特徴で、リビングにいる人と通路を歩く人との間で「おばあちゃん、元気?」と會話が生まれるように、と提案したものだった。また、敷地內の家庭菜園では野菜を収穫し、防災用のかまどベンチでは普段からバーベキューも楽しんでほしい。
空間や設備一つひとつに込めた思いをご入居者様に直接伝えたいと、自治體に引き渡した後も、野菜づくりの講習會や芋煮會などコミュニティ支援のイベントを行った。
現在建設中のある復興公営住宅では、コミュニティ広場の使い方を入居予定者や近隣住民と決めるワークショップに協力している。請け負った仕事が終わっても、人々と顔を合わせ、対話を重ね、暮らしを創る。多忙な設計業務に加え、今のスタイルを石井が続けている背景には、ひとつの強烈な體験があった。
外構擔當の鈴木
集會所での料理教室
身震いするほど嬉しかった
石巻市営栄田復興住宅が完成した時、石井は仙臺支社のCSR推進擔當の遠藤と入居者説明會の後に餅まきを企畫。ご入居者様が地域に溶け込めるようにと、周辺の町內會長宅を回り、近隣住民の方々も招待した。多忙を極めるスタッフも駆り出し、「設計をした大竹です!工事をやった岡村です!」と仲間を紹介した、その時だった。
集まった人々から思いもかけない大歓聲が上がったのだ。よくやった!ありがとう!オォーッと響きわたる聲を聞き、石井は背中が身震いするほど嬉しかった。スタッフたちの目も強い光を放っていた。
被災者とともに復興の道を歩んできた。家を無くした、大切な人を失った、ようやく入居したのに家族が亡くなり一人になった。辛い話を何度も聞いた。だからこそコミュニティ支援にも取り組まずにはいられないのだ。すべてはご入居者様に笑顔で暮らしていただくために。
石井は、新しい住まいを得た人々の喜びやご入居者様からいただく感謝の言葉を、すべての仲間に伝えたいと思っている。「復興公営住宅の仕事には、さまざまなスタッフが攜わっています。私たち東北地區の設計、営業、工事、開発造成擔當はもちろん、部品の配置設計、仕切、研究所や工場、商品開発、CSR、アフターサービス、総務部門など、全國の仲間が新たな挑戦である復興公営住宅の建設をバックアップしてくれており、本當に感謝しています」
「現場の聲」を體感することで、人は頑張れる。石井自身、人々の聲を聞き続けたことで、やりがいと、暮らしに寄り添う気概が生まれたのだから。
「これからは東日本大震災で、建築の技術的な問題點をどう乗り越えたかをまとめ、次の世代につなげたい」。そう石井が語った1週間後、熊本で震度7の大地震が発生した。日本に住むかぎり、これからも地震はどこで起こってもおかしくはない。建築に攜わる私たちが気をゆるめる日は來ないだろう。ただ、持てる最大限の力を盡くすだけだ。建物の先に、暮らしと命があることを一瞬たりとも忘れることなく。
ご入居者様や近隣住民とスタッフが
一體となった餅まき
取材日:2016年4月6日
※掲載の情報は2016年4月時點のものです。