1950年、関西地方を襲った最大瞬間風速59.1m/sのジェーン臺風により、住宅12萬戸が被害を受け、そのうち2萬戸近くの家屋が全壊。87萬人余りが被災しました。
大和ハウス工業創業者の石橋信夫は、周囲の木造家屋が無殘に倒壊しているにも関わらず、強風にさらされても折れていない稲や竹を見て考えます。共通するのは「丸くて、中が空洞であること」。それなら「鉄パイプで頑丈な建物をつくればいい」。著想から5年の歳月を経た1955年4月、大和ハウス工業は創業と同時に「パイプハウス」を発売します。
開発の背景には、當時の建材事情もありました。戦時中の亂伐で山林は荒廃し、政府は1955年1月に木材の枯渇を防ぐ「木材資源利用合理化方策」を閣議決定し、「木材代替資源の使用普及の促進」を図っていました。鉄パイプの建築は、時代の要請にマッチしたものでもあったのです。
建築の工業化により同じ仕様、安定した品質で、速く安く簡単に建てられる「パイプハウス」は、高度経済成長期、全國に事業を拡大する官民さまざまな企業に採用されました。特に國鉄(現在のJR)は、全國に張り巡らせた路線の駅?沿線に、簡易倉庫や車庫を建設する必要に迫られていました。「パイプハウス」は、注文すると標準仕様部材を組み立てるだけ。従來工法に比べて圧倒的に施工が速く、國鉄の需要に合致していたのです。
「パイプハウス」は、木製サッシを取り付け、ハードボードで內裝を施して仮設住宅としても用いられました。発売翌年の1956年には、関西電力が富山県立山町につくる黒部川第四発電所、通稱「黒四ダム」工事現場の宿舎にも採用。険しい山に阻まれた渓谷だからこそ、少ない部材で素早く建設でき、風にも強い「パイプハウス」が適していたのです。そうして過酷な現場で命がけで働く人々を守り続けました。
「パイプハウス」で培った鋼管建築技術は、仮設建築物である「パイプハウス」から、大口徑管を使った本格的な一般建築物へと発展していきます。1957年、兵庫県西宮市の酒造會社から、建築面積219坪という大規模建築を請け負います。背景には、前年の1956年に「構造用炭素鋼鋼管のJIS」が設定され、これまで日本では建築材料として認められていなかった鋼管を利用できるようになったことがありました。これが追い風となり、発足したばかりの日本軽量鉄骨建築協會の審査を無事にパスし、日本初の鋼管構造建築が誕生します。
基礎著工は1957年4月28日、竣工は同年6月15日。それから38年後の1995年1月17日、マグニチュード7.3の阪神?淡路大震災が発生しましたが、この鋼管構造建築第1號の貯蔵庫は無傷でした。
大規模な自然災害時には応急仮設住宅になりました。1959年、超大型の伊勢灣臺風が中部?近畿地方を襲い、死者?行方不明者が約5,000人、家屋全半壊流失が約15萬戸という甚大な被害をもたらしました。この時、安価で短時間に建てられる「パイプハウス」が応急仮設住宅としてふさわしい、と大量の注文が殺到します。災害時、まず求められるのはスピードです。大和ハウス工業は通常業務をストップし、「パイプハウス」の一日も早い建設に力を盡くしました。
この経験を通して、大和ハウス工業は災害援助のノウハウを蓄積。同時に、萬が一の災害時に応急仮設住宅を速やかに提供し、被災者の暮らしを守ることが「私たちの使命である」と強く自覚することになりました。
2011年、「パイプハウス」は「ミゼットハウス」とともに、獨立行政法人國立科學博物館により「重要科學技術史資料」、愛稱「未來技術遺産」に登録されます(登録番號:第00081號)。日本の科學技術の発展を示す貴重な資料「黎明期のプレハブ住宅」として認められたのです。
大和ハウス工業の創業商品として誕生し、「建築の工業化」を大きく進展させた「パイプハウス」。倉庫や仮設住宅に始まり、のちには鋼管構造の礎に。そして、現在の物流施設や工場、事務所などの建築事業へと脈々とつながっています。
官民挙げてプレハブ建築開発が行われた中で、民間から生まれて経営的に成功した最初の建築である。「パイプハウス」は、22~27mm徑のスチールパイプの柱とトラスによって組み立てられ、倉庫に始まり仮設住宅として使用され、後の鋼管構造建築の礎となった。日本で花開いたプレハブ建築技術の先駆けとして貴重である。
「パイプハウス」「ミゼットハウス」は大和ハウス工業 総合技術研究所(奈良市)に実物展示されています。
「パイプハウス」を出発點とする施設建築ソリューション。目的に合わせた各種施設の建設をトータルプロデュース。
建築に関するテクノロジー
まちづくり?複合開発?地域の活性化
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